昨年のニュース |
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廃業したフィリピン航空(PAL)の初めての飛行は1941年3月15日にアメリカ人パイロットのポール・ガン機長とエミリ・スコット副機長によって2機のエンジンを搭載した「ビーチ・モデル18」が飛ばされ、その処女飛行の乗客は僅か5名だった。その誕生したばかりのフィリピン航空を第二次世界大戦(1941-1944年)が襲い、PALのアメリカ人とフィリピン人パイロットは、空軍のパイロットを強制させられ、ポール・ガン(処女飛行のパイロット)は、米国空軍の爆撃機パイロットとして有名になった。1948年にフィリピン政府は、PALを政府の監視下に置き国営企業としたが、1975年に民間企業に戻された。だが、1977年にマルコス大統領は、政府サービス保険制度(GSIs)に航空会社との利害関係を増すように指示し、政府は再びPALの92%を取得して国営企業に戻された。PALは1980年までは順調に利益を上げていたが、他の航空会社が4000人位しか従業員を持たないのに、国営PALは1万4000人迄に膨らませた為に、赤字に転落した。1992年に大統領に就任したフィデル V ラモス大統領は、余剰人員と役人体質による赤字体質のPALを民営化に踏み切り、PLDTの大物、アントニオ・コファンコが率いる"consortium PR Holdings Inc."が買い取ったが、その1年後にコファンコ氏は重役会議の闘争で、中華系フィリピン人のルシオ・タン氏に追い出されて、タン氏はPALの会長に就任した。1995年になると国内航空の参入が自由化され、低料金とサービスを引っさげて4社が次々と参入してきた。今まで独占状態で役人体質のPALは、一気に乗客を奪われ、タン氏はそれに対抗する為に徹底して合理化を計り、1996年には米国のボーイング社とヨーロッパのエア・バス社から合計36機の飛行機を購入、及び人員削減を目的とした「40億ドルのPAL近代計画」に着手した。しかし、その後に襲ったペソと他のアジアの通貨の切り下げは、その近代化計画を延期にさせ、国際線の空路を縮小させる結果となり、タン氏の押し進める人員削減で組合は一気に反発し、組合側は幾度もストライキを行い、その度にPALの借金は膨らんで行った。そして、労使問題が解決しなければ、今後もストライキが続き会社の回復は無理と判断したルシオ・タン会長は、、PAL従業員連合(Palea)にPALの20%の所有権及び取締役会の3議席との引き替えに、10年間の団体交渉合意(CBA)の停止条件の和解案を申し入れたが、組合はこれを拒否した為にアジアで最も古い歴史を持つ、フィリピン航空は従業員自らによって廃業する事となってしまった。エストラーダ大統領が語った様に、労働者自身がこの廃業を教訓にせずに、会社を信じず、組合が会社と対決姿勢を続ける限り、今後も、廃業する会社が後を絶たないだろう。
メトロ・マニラ 西ビサヤ 東ビサヤ 南タガログ ビコール |
3144名 2079名 1917名 1524名 1274名 |
1、社会福祉開発省(DSWD)は犠牲者の財政的な能力により、死亡した犠牲者の家族に埋葬費用として最大2000ペソ(約6080円)を与えている。
2、フィリピン空軍(PAF)はヘラクレスC-130飛行機を使って生存者55名をマニラからセブ市へ輸送した。
3、厚生省(DOH)は、医薬品及び遺体袋を社会福祉開発省(DSWD)に提供し、捜索・救出活動を行っている。
4、国家災害対策委員会(NDCC)は、オルランド・メラド国防長官の指導の元、政府が行っている救出活動の強化する為に、調査を行う。
一時帰国及びパソコン復旧の為、お休み
この合意について、フィリピン航空従業員組合のアレックス・バレントス議長は「我々は幾つかは、負けたが、幾つかは勝った。この合意は双方がうまく収まる解決方法である」と語り、管理側のPALのモロノ・アキノ副社長は「我々は非常に満足している。これはその航空会社の再建のために、組合の支援を得られた事を示し、それは更生計画の成功を確実にするだろう」と語った。また、フィリピン航空は「この合意により5日間続いたストライキは終了し、フィリピン航空従業員組合のメンバー8000人は、24時間以内に職場に復帰し、7つの国際便と20以上の国内便は数日のうちに平常通りに運行される」と発表した。
最近のニュースでチーム・フィリピン基金は「クローニーの身内びいき」によって創設されたとの報道に言及します。チーム・フィリピンの業務内容は既に、ジョセフ E. エストラーダ大統領に説明しました。チーム・フィリピン基金の理事委員会はその論争について、次の声明を発表します。 チーム・フィリピン基金のメンバーの中に前フィデルV.ラモス大統領の政権の間に「要請融資」によって、いかなる利益を得たと認識している人は1人もいません。チーム・フィリピンはフィリピンの商業の様々な分野の促進と、継続を考慮した非政治的な組織として設立されました。民間セクターからの参加は、他の国の民間セクターや地方の経済団体と会合、概況説明や講演を行うのに不可欠です。我々メンバーは、以前に前フィデルV.ラモス大統領によって、彼の海外経済使節団に加えられましたが、その参加費用は我々自身で負担しました。我々は他の国の組織基金を真似てフィリピンとの貿易促進を目的にビジネス専門家チームを創設しました。チーム・フィリピンはその基金の役割上、あらゆる推測を止める様に望みます。 |
とエストラーダ政権の主張を否定する声明文を発表した。
大統領選挙候補者らの選挙運動支出金 注?は報告を怠った候補者
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ホセ C. デ ベネシア Jr. | 1億0240万ペソ |
3億4677万円
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アルフレド S. リム | 7380万ペソ |
2億4991万円
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ジョセフ E. エストラーダ | 4066万ペソ |
1億3770万円
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ホォアン ポンシ エンリレ | 2593万ペソ |
8781万円
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マヌエル L. モラト | 1370万ペソ |
4639万円
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ミリアム D.サンチャゴ | 1012万ペソ |
3428万円
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サンチャゴ F. ドゥミラオ Jr. | 273万ペソ |
922万円
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ラウエル S. ロコ | ????ペソ |
????万円
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エミリオ R. オスメニャ | ????ペソ |
????万円
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レナト S. デビリア | ????ペソ |
????万円
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フィリピン国家警察官1117名
フィリピン国軍人 725名
親愛なるマルコス夫人
私は、フェルナンド E. マルコス大統領の埋葬に関わる事について、あなたとあなたの継承者にこの手紙を書きます。 私は、前提条件を付けて、彼の遺体をフォート ボンファシオの軍墓地(マニラ英雄墓地)への埋葬に許可を与える事を決めました。 その埋葬の理由は単純で、その埋葬をする事で、10年以上続いてきた議論に終止符を打つ事を望んでいるからです。それが完了した時に我々は連合した国家となる事が出来ると考えます。 私は、私達がこの条件を同意する事で、誰もが、その埋葬式が単なる宗教上の儀式であると認めると確信しています。 したがって、私はその埋葬に当たって以下の条件を付ける事を決めました。
以上が私の条件です。 私は国防大臣に指名したオルランド・メルカド上院議員に、あなた又は、あなたの代理人に会い、詳しい打ち合わせをするように指示しました。 私は、これらについて、あなたの理解と協力してくれる事を望みます。 ジョセフ E. エストラーダ |
重傷者5名の入院先マカティ・メディカル・センター(TEL:815-9911〜50)
軽傷者 18名
そして、最後に外国企業による、500万ペソ(約1800万円)分の花火ショーでは、フィリピンで見られる花火と違った外国花火で、国民達を釘づけにした。その外国の花火を初めて見たフィリピン人の1人は「爆竹の事を花火って思っていたけど、凄く綺麗・・・これが、本当の花火なんですね」と言い、感動しながら、何度もカメラのシャターを切っていた。今回の独立百周年式典・パレードを見に来た国民の数は推定500万人程と見られる。
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ジョセフ E. エストラーダ | LAMMP-LDP |
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グロリア マカパガル アロヨ | Lakas-NUCD-UMDP |
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ローレン B. リガルダ(レビステ) | Lakas-NUCD-UMDP |
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レナト L. カイエッターノ | Lakas-NUCD-UMDP |
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ビセンテ C. ソート 三世 | LAMMP-LDP |
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アキリーノ Q. ピメンテル | LAMMP-LDP |
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ロバート Z. バーバース | Lakas-NUCD-UMDP |
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ロドルホ G. ビアーゾン | LAMMP-LDP |
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ジョン レナー オスメニャ | LAMMP-LDP |
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ブラス F. オプレ | LAMMP-LDP |
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ロバート S. ジャワスキー | LAMMP-LDP |
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ラモン B. レビーラ | Lakas-NUCD-UMDP |
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ティオフィスト T. ギンゴニャ | Lakas-NUCD-UMDP |
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テレサ アキノ(オレタ) | LAMMP-LDP |
パサイ副市長
勝 グレッグ・アルセラ
パラニャーケ副市長
勝 ジュン ベルナベ
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マヌエル・ビラ |
3億2440万ペソ |
11億1096万円
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レナト・ドラゴン |
2億0920万ペソ |
7億1643万円
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ジョン・オスメニャー |
1億2860万ペソ |
4億4041万円
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ホセ・コジュアンコ Jr. |
8260万ペソ |
2億8288万円
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ビセンテ・サンドバル |
7840万ペソ |
2億6849万円
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ギルベルト・ドゥアビト |
7570万ペソ |
2億5925万円
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ロドルホ・デル・ロサリオ |
6580万ペソ |
2億2534万円
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ビクトリコ・チャベス |
6140万ペソ |
2億1027万円
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ロゼリオ・サルミエント |
5870万ペソ |
2億0102万円
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ダニロ・スアレッツ |
4980万ペソ |
1億7054万円
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・・・ |
・・・・
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イメルダ R. マルコス |
-7960万ペソ |
-2億7260万円
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マンダルーヨン市 午後2時時点
ケソン市 午前9時30分時点 開票率62%
パラニャーケ 開票率10%
パサイ市 午後5時20分時点
マリキーナ市
パシッグ市
サン・ファン
dzRH 回答者4万1849人
JEEP 回答者7763人
Facts Base Inc.回答者2100人
現地時間、午前9時30分:ケソン市及びセブにて投票買収が発覚した。今現在の相場は一票500ペソ(約1700円)と言われているが、今回の買収は1票50ペソ(約170円)だった。
昨日、フィリピン国家警察(PNP)のアリノ事務局長は1992年の選挙関連での死亡者が26名だったのに対し、今回の選挙での犠牲者は既に34名となり、30%増加した事を公表し、選挙が終了するまでに更に犠牲者が増える事を警告した。
以上の様な結果となったが、これらは表の財産と思われ、実際の財産は未知数である。
LRTは1日の収益は300万ペソ(約1020万円)で、この4日間で1200万ペソ(約4080万円)を失った。
また、アルフレド・リム市長は今日の午後に6年間に上るマニラ市長職を辞任する予定、後任には5月の選挙にマニラ市長選に立候補している、副市長のアティエンザルが繰り上がる。
この空港の滑走路は長さ2.1Kmあり、実際に着陸で使用されるのは1.9Kmだが、この飛行機は滑走路の中央に着陸を始め 航空局(ATO)のタネガ氏は「異常なスピードで止まる事が出来ずに、滑走路から200メートル程過ぎ、川を越えて民家に突っ込んだ」と語った。
一方、ビル・ゲイツ氏が宿泊しているマニラ・ペニシュラ・ホテル前では、マイクロ・ソフト社に抗議する団体は「世界で最も金持ちの男が、この国の一般収入と到底見合わないソフトの金額を設定し、その著作権を守るために、フィリピン企業と協定を結び、政府に海賊版の摘発を依頼しに来た」と述べ、抗議団体のメンバーらは、ゲイツ氏の顔のお面を被った同メンバーにクリーム・パイを投げるデモンストレーションを行った。
それに対してエストラーダ副大統領は「それらは全て嘘で、ベロヤは生まれつきの嘘つき」と反論した。また政府を非難し「ベロヤとは法廷で戦う」と言った。
大統領候補者
副大統領候補者
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注 意
有視界飛行とは視界良好な場合に操縦士の視覚に頼りながら行われる航空航法
Golla: Hindi kaya may mga mountains dyan?
副機長:(その辺りに、山がありませんか?)
Justo: Wala naman siguro, Sir.
機長:(多分、ないです。どうぞ)
Golla: Levelling off at 5,000, Sir.
副機長:(5000フィートに上昇します。どうぞ)
Justo: O sige, Sir.
機長:(了解しました。どうぞ)
Golla: Eh wala akong nakikita eh. Mabuti nang sigurado tayo.
副機長:(あっ! 私には何も見えません 。・・・でも、大丈夫だと思います。)
GPWS: Terrain! Terrain!
警告機:(地面接近! 地面接近!)
Golla: Ayan.
副機長:(そこ!)
GPWS(警報機): Whoop, whoop, pull up(four times)
警告機:(上昇せよ! 上昇せよ! 上昇せよ! 上昇せよ!)
(inaudible)聞きとれない
sound of paper shuffling (紙を切る音)
GPWS: Whoop, whoop, pull up
警告機:(上昇せよ!)
sound of paper shuffling (紙を切る音)
GPWS: Whop, whoop, pull up (twice)
警告機:(上昇せよ! 上昇せよ!)
Whoop. (あ〜・・・・)
録音終了
以上の内容から、今回のセブ・パシフィック航空387便の墜落事故は航空局(ATO)が発行している誤った航空地図が原因と考えられる。理由はその航空地図で安全とされる高度は4500フィートで、ボイスレコダーで副機長は「5000フィートに上昇します」と言っている。また、フライトレコーダーでも上昇前で4500フィートを保ち、最後の記録では5000フィートに達していた。しかし、スマガヤ山は標高6750フィートあり、その差1750フィートあり、スマガヤ山に激突した。1970年以降、この山での墜落事故は少なくても4件起こっており、それらの事故の原因も誤った航空地図という可能性が高まった。