フィリピンでの下痢 |
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下痢は医学的に急性胃腸炎あるいは急性大腸炎の症状の一つであり、原因は様々である。もともと大腸には大腸菌をはじめとする無数ともいえる細菌群が住みつており、食物の残滓を栄養にして繁殖し中には人間に必要なビタミン類を供給しているようなものもある。これらの細菌群は繁殖の過程でガスを発生させたり便の硬さをコントロールする役割まではたしている。強い抗生物質を投与してこれらの無害な細菌群を殺してしまうと下痢が起こる事も良く知られている事である。このような害のない細菌群の微妙なバランスのおかげで人間は下痢をせずにすんでいると考えても良いほどなのである。
食事や飲料水の中にはいくら注意をしていても様々な細菌やウィルス、毒性物質、寄生虫、あるいは寄生虫の卵がまぎれこんでいる。しかし、口から入り込むこれらの多くの微生物等は胃における強い胃酸分泌による酸性や小腸でのアルカリ性にさらされるために下痢にいたる悪影響をあたえるものは限られてくる。さらに免疫の作用によって身体が一度障害を受けても生き残ると次に同じ物質に出会ったときには傷害されなくなる等の防御機構もあるために、同じ病原性微生物や毒性物質に対する反応にも個人差がある。この為にある人には症状をおこして致命的な経過を取るような病原微生物が、ある人の身体には全く障害を与えずに共存しているキャリアー、不顕性保菌者といわれる状態がおこる。これらのキャリアーが他の免疫の無い人には有害な微生物を糞便中に排出している事になる。
さて、日本では急性の下痢をおこして生命に危険が及ぶような病原微生物に関しては法定伝染病、指定伝染病として隔離したり徹底した防疫対策により感染経路の追求をして環境の中から原因菌を取り除く方向で対処して行く。しかし、今回の1000人を越える被害者を出したような病原性大腸菌Oー157のような集団食中毒を防ぐ事は困難な状況である。日本のこのような法律に基づく徹底した防疫体制のもとでは、腸管を傷害してさらに他臓器に障害を与えるような危険な病原菌による下痢は比較的少なく、また脱水による危険性も少ない場合が多いので医師も最初から下痢止めを処方する事が多いようである。
しかし、フィリピンでは防疫対策も日本とは違い社会的な対応よりも危険な水は飲まない生物は食べない等の個人の防御に重点をおかざるをえない環境になっている。この為、医師も常に危険な病原菌による下痢を想定した治療を行っていかなければならない。便に血が混じる下痢は一般に赤痢と呼ばれているが原因は単一ではなくいわゆる赤痢菌Shigella属、原中類のアメーバによって起こり、さらに腸チフス菌Salmonella typhiに代表されるサルモネラ属、Campylobacter-ennterocolitis、病原性大腸菌Oー157のような大腸菌のVerotoxin産生株の等によっておこる。また、マンソン住血吸虫や日本住血吸虫のような寄生虫によって起こる事もある。これらの出血を伴う下痢をおこすような病原微生物の場合は、適切な病原微生物を殺すような薬を使わないで下痢を止めようとすると、微生物が血管内に入り込んだり、腸管の壁が破れて腹膜炎を引き起こしたりして重症化する可能性がある。
これらの腸管を傷害する病原微生物の頻度の高いフィリピンでは、下痢の経過と同時に、治療に 先だつ便の検査が非常に重要になる。
便の顕微鏡検査では、腸管からの出血の有無、虫卵、アメーバ等の有無の診断がすぐに出来る。また暗視野装置など特殊な顕微鏡を使うとコレラなどの診断が即座につく場合もある。一般的に原因微生物を突き止めるためには、結果が出るまでに数日かかる培養検査を行わなければならない。しかし、このような培養検査は結果が分かるまでに日数がかかり実質上の治療の参考にはなりにくい事、フィリピンの防疫体制が危険な病原微生物の特定を要求していない事、治療には直接関係のない検査が患者の経済的な負担増加になることを嫌うために通常は行われないのが一般的なようである。下痢のメカニズムをよく理解して、決して下痢止めなどを自分の判断で飲む事無く医師の適切な指示に従っていただくようにお願いしたい。
治療は下痢によって失われる水分を補給するために、下痢の時にも吸収され易い塩分や糖分を適度に含んだ水を経口的に十分に補給し、経口投与では不十分と思われるときには点滴注射で水分を補いながら脱水を防ぐ。そして、便の検査の結果を参考にアメーバ等の原虫には抗原虫剤、寄生虫の場合には駆虫剤、細菌性が症状などから疑われる場合には適当な抗生物質を投与する。しかし、細菌性の下痢とウィルス性の下痢の鑑別は難しく、また細菌の種類によっては抗生物質の投与による細菌死滅時に出す毒素がかえって障害的に働く場合もあるのでまったく抗生物質を使用せずに水分を補給しながら下痢の作用によって病原微生物が自然に排出され自然の回復力によって下痢が止まるのを待つ場合もある。日本人は、フィリピンに来てその暑さに対して十分な水分が取りきれおらず潜在的に脱水になっていることがあり、下痢止めをすぐに使うという治療になれている。さらに、水分を取らなければ下痢が止まると誤った考えを持っている事があるなど現地のフィリピン人の患者より非常に危険な状況におかれているようである。
水を媒介とする経口感染症の多くは下痢症状をともなう事が多い。A型肝炎の様に下痢を伴わないものにも注意を要するが、ここではフィリピンにおける下痢の一般的な注意を上げておく。
また下痢は、口から入り込む物質によっておこるばかりでなく、ある種のウィルスやマラリア等の血液中の感染物質でもおこることがあり、また、牛乳を飲むと下痢をするという体質的なラクトース不耐症、あるいは食物アレルギーのなどの場合もあり、原因の究明と治療は非常に難しいものである。いずれの原因にしても、下痢は水分を吸収する大腸の粘膜の水分吸収機構が傷害されて起こるものである。さらにコレラに見られるように、本来は水分を吸収する役割をする腸管から大量の水分や塩分が失われる事もある。下痢をおこす病原物質が腸管以外の臓器も同時に傷害して致命的な経過をたどるものもあるが、一般的には下痢の危険性は身体内への水分の取り込みが十分に出来ずに水分の不足と電解質という塩分のアンバランスが引き起こすものに限られる。